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一兆円令嬢の 趣味はメイド生活です
一兆円令嬢の 趣味はメイド生活です
مؤلف: 6jay

第1話 燃え尽きた令嬢は、メイドに応募する

مؤلف: 6jay
last update تاريخ النشر: 2026-09-15 20:56:38

世界規模の投資ファンド、ヴァルハラ・キャピタル。東京本社33階の大会議室には、凍りつくような沈黙が流れていた。

四方をガラスに囲まれた部屋の上座で、神谷紗良(かみや・さら)は無表情のまま時計に目を落とした。

午後2時15分。

欧州の製薬会社の買収をめぐり、議論は堂々巡りを続けている。副代表が額の汗を拭い、おそるおそる口を開いた。

「会長。現地の労働組合が、300億円の追加出資を求めています。今四半期中に署名しなければ、優先交渉権を失います」

紗良は資料から顔を上げなかった。白く細い指に挟んだ万年筆で、テーブルを軽く叩く。

先代から受け継いだ持ち株と、自らの投資で築いた利益。公表されているものだけで、紗良の個人資産は1兆400億円に上る。

非公開の持ち分や海外信託まで含めれば、その全容を把握できる者はほとんどいなかった。

ヴァルハラは、会長の顔をめったに外へ出さない。対外的な公表には海外信託の名義や英字のイニシャルが使われ、「神谷紗良」という本名を知る者さえ、ごく一部に限られていた。

報道に使われるのは、たいていシルエットか代理人の写真。日本を代表する10大企業のトップたちですら、面会まで半年待たされる。

27歳にして投資会社の頂点に立った女。

けれど、その瞳にあるのは達成感ではなかった。底の見えない倦怠と、消えない疲労だけだ。

「追加出資の要求は却下します」

澄んだ声が、静まり返った会議室に通った。

「あの会社の臨床データには欠陥があります。300億円も追加するなんて、シュレッダーにお金を放り込むようなものです」

「し、しかし、会長――」

「買収から全面撤退してください。違約金50億円を支払って、即座に手を引きます」

決裁書類を閉じる。

その一言で、2,000億円の買収計画は撤回へと動きだした。

誰も声を発しないなか、紗良はゆっくりと立ち上がった。

「本日の予定は、これで終わりです。今夜7時から30日間、休暇に入ります。正式な復帰は30日後の午後7時に設定してください」

秘書室長の黒田が、顔色を変えて後を追った。

「会長、突然そんな……! 来週はニューヨークのフォーラムがございます!」

「すべて取り消して。私の署名が必要な緊急案件だけ、衛星回線に上げてください。それ以外の連絡は不要です」

紗良が求めているのは、高級リゾートでもヨットでの休暇でもなかった。

果てしなく続く数字との戦い。そのなかで燃え尽きた彼女は、もう3年、睡眠薬なしでは眠れずにいた。

頭の中が静かになるのは、たったひとつの瞬間だけ。

汚れを跡形もなく拭き取り、傾いた物を1ミリのずれもなく、きちんと直角にそろえたとき。

完璧に整った秩序がもたらす、理屈抜きの安らぎ。

それだけが、1兆円を持つ女の逃げ場所だった。

* * *

3日後の午前。南青山にある最上級の家事代行エージェンシー、ザ・ヘリテージの面接室。

「神谷紗良さん、27歳。職歴も資格もないのに、実技試験は満点なのね」

支店長は、目の前の女をいぶかしげに眺めた。

本人確認も、犯罪歴を含む身元審査も問題はない。なのに、履歴書の中身は不自然なほど空白だった。

化粧気のない澄んだ顔に、飾り気のない服装。にもかかわらず、ひんやりとした気品だけは隠せていない。

「神谷さん、うちは普通の清掃会社じゃないの。資産家のお宅に住み込みで働く仕事よ。どれだけ気難しいお客様を相手にするか、わかっている?」

「拭き掃除と整理整頓に集中できるなら、待遇は問いません」

紗良の目は静かなままだった。

巨額の資金を動かし、投資家や経営陣と渡り合ってきたのだ。この程度の圧力など、どうということはない。

支店長は小さく舌を鳴らし、ファイルを1冊差し出した。

「ちょうど今日から入れるペントハウスが、1件あるにはあるんだけど……。ここは本当に地獄よ」

「どちらですか?」

「高城グループの総括副会長、高城冬真様のご自宅。元麻布のペントハウスよ」

高城冬真(たかしろ・とうま)。

高城グループの後継者であり、つい先日、ヴァルハラに3,000億円規模の出資を打診してきた男だ。

「極度の潔癖症で、不眠にも悩まされているそうなの。髪の毛が1本落ちていただけで即解雇。この3か月で辞めさせられたハウスキーパーは12人よ」

「いいですね。そちらにお願いします」

ここなら、自分が1兆円超の資産を持つ投資会社の会長だとは誰も知らない。

ただ掃除と秩序だけがある世界へ。

これほど都合のいい入り口はなかった。

* * *

元麻布の高台に建つ、約600平方メートルのメゾネット式ペントハウス。

重厚な玄関扉が開き、紗良は冷たい大理石のホールに足を踏み入れた。

広いリビングの窓際に、濃紺のシャツを着た男が立っていた。

高城グループの若き支配者、高城冬真。

彫刻を思わせる鋭い輪郭と、冷え切った眼差し。その存在だけで、部屋の空気が重くなる。

冬真はゆっくりと振り返り、紗良を頭から足元まで見た。

「エージェンシーは、私の警告を伝えなかったようですね」

低く冷ややかな声が、リビングに響く。

「水仕事など、したこともなさそうな人をよこすとは」

紗良の手首を一瞥し、彼は薄く笑った。

「この家に、役にも立たない飾り物も、手を抜く人間も必要ありません。手っ取り早く小遣いでも稼ぐつもりで来たのでしょうが……」

冬真は一歩近づき、容赦なく言い切った。

「あなたも3日ともたないでしょう」

紗良は、まばたきひとつせずに答えた。

「それは3日後にご判断ください、雇い主様」

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